「ネイチャー・センス」展
 

森美術館で「ネイチャー・センス」展を観た。
吉岡徳仁さんの冒頭の作品「スノー」がよかったですね。
雪が降るということが、単純に空から垂直に降るのではなく、それは舞いあがり、横にときに上方にあがっていくということが、白い羽毛によって表現されていた。


| たまにアート| 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) |

「古屋誠一 メモワール.」展  写真が写真家に過去の事実究明を求めること
 


恵比寿の東京都写真美術館で「古屋誠一 メモワール.」展。
若くして渡欧して、日本料理屋でバイトしながら写真家を目指した写真家。
この展示では、妻クリスティーネの死から出会いまでを遡る形で写真が並べられている。写真を観ていて、違和感が起きる。妻がモデルとはいえ、あまりにこのモデルは笑わなすぎではないか、微笑みもなく、優しさもなく、表情はかたいものが多い。
その背景に、彼女の病があったことが明らかにはなるものの、それでもどうしてだろうという疑問を観る者は受ける。そして、それはこれを撮り続けた写真家自身がもっていた感慨ではなかったか。
彼はそれを解き明かすために、写真と対峙し、その写真を説明する彼女の日記の翻訳まで行っていく。
恐らくそれはとても辛い作業だっただろう。
人は記憶というものを、美化とまではいかなくても、そっととっておきたいものだ。
できれば辛い記憶は忘れたいし、それも淡い色に塗りたいものだ。

だけど、写真家はそれを許せなかったのだろう。
記憶の中から事実だけを見つけ出していこうとする。
写真はその意味で記録であった。

写真の中で、クリスティーネがやわらかな笑いを浮かべている写真が出てきてほっとする。だけど、残酷なことにそれは若いときの写真であった。
写真を撮ること、それを観ていくこと、多分、苦しかっただろうね。


| たまにアート| 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) |

こんな週末、ハンス・コパー展
金曜の夜は赤坂見附まで出て、妻と妻の父と兄と一緒に食事。
みな、お酒の味わい方をよく知っている。
慌てて飲まないし、時間がゆっくり流れていくのを楽しんでいる。

土曜日は、organic farm暮らしの実験室、八郷農場にご案内する。
梅雨シーズンらしく、かたつむりや雨蛙、尺取り虫、トンボ・・・そんな生の営みがつづいている。
なんだか、そんなこと忘れていたんだな、と自分を取り戻す。
農場は、大豆のイベントや大学生の研修でにぎわっていた。
僕らも交じって、ランチする。
帰りの石岡駅では、知らないおばちゃんと話をしていたら、蕗とシソをいただいたよ。オープンな気持ちでいたから、知らない人からも話しかけられるんだね。それとも田舎だからかな。

日曜日はジムで走って、そうめん食べてから、汐留の松下電工ミュージアムで「ハンス・コパー展」
戦争が彼の人生を破壊し、彼に芸術(陶芸)をもたらした。
彼の陶芸は、一見シンプルそうなのに、構造はいくつかの器をつなげていたりして単純ではない。
ルーシーリーのようなラインの美しさよりも、形象の表現に魂を打ち込むことに傾倒したようだ。
若いときの収容所暮らし、父親の自殺、家族との別離、重なる再婚・・・、人生の深い河の中で、彼は陶芸に自分の人生の光を見出したのだと思う。
ルーシーリーと一緒に写っている写真は充実感がみなぎっていてよかった。
陶芸自体は、正直、僕はルーシーリーのほうが好きです。


| たまにアート| 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |

「ルーシー・リー展」


新国立美術館で、ルーシー・リー展
以前、東京駅の美術館で観ているので彼女の作品を観るのは2回目だったが、彼女の一生を作品とともに追えるような展示になっており、人となりも感じることができて、なかなかよかった。
1902年に生まれて、芸術等が19世紀末〜20世紀初めに輝いていたウィーンで、若い時代を過ごせたのは大きな影響を与えたようだ。さらに、ユダヤ人であったため、ナチスの迫害をさけて、イギリスにわたったことも大きな人生の変わり目だったようだ。

彼女の人となりは、貴重なビデオ映像でわかる。真摯で、それでいてお茶目な感じの方だった。器を焼く掘り込み型の電気オーブンに頭から入って、あまりに深すぎて足をばたばたして、インタビュアーのアッテンボローに足を押さえてちょうだいと声をかけるシーンは少し笑えた(他に人がいなかったら一体どうしてたんだろう?)。

器は縁がちょっと壊れそうなくらい薄くなって、シャープな線を描いているのが特徴的。このシャープだけど、それでいて温かみのある作品をつくれるのが彼女のすごさではないか。釉薬も随分と研究していて、青みを出したり、ピンク色を出したりして、更に色の出方にもこだわっている。それから、手書きの彫り込みのライン。一本一本、針で線をつけていたのが印象的だった。
均斉のとれた器は、彼女のセンスと人となりがうまく組み合わさってできたものなんだね。

彼女のお仲間であるハンス・コパーさんの展示も6/26からパナソニック電工の汐留ミュージアムであるようだから足を運びたいね。

| たまにアート| 00:59 | comments(0) | trackbacks(0) |

「フセイン・チャラヤン展」 表現としてのファッション


東京都現代美術館で「フセイン・チャラヤン展」。
実はファッション系のアートを観に行ったのは初めて。
そのため、そもそもどこに着眼したらいいのかがよくわからないまま、最後まで。

ファッションも表現の一形態としてあり、アーティストの抱えているものが形として表れる一方で、それが生身の人が身につけるものであるところに、他のアートとの決定的な違いがある。
キプロス出身ということで、国境や民族、移動を意識させるものも多かった。

常設も観て、夕方には家に帰ってきて、バゲットと有機野菜のサラダとオリーブ、ピクルスつまみに、ビールを飲んでいた。なんだかまっとうな休日の夕方という感じ。


| たまにアート| 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) |

「ベルナール・ビュフェ展」 無機質で鋭角のラインは存在の苦しみから生まれた


目黒美術館で「ベルナール・ビュフェ展」。
ビュフェの作品は以前まとめてみたことがあって、それ以来好きだった。
今回改めて観直して、僕が好きだった無機質的な硬質な直線からなる絵画は、そもそもビュフェの原体験の苦しみが表現されていたのだということがわかった。
絵はどれもが暗い、道化師の絵もむしろその苦しみを描いているように思える。

家庭の苦しみと戦争でいとも簡単に人の命がなくなっていくことの苦しみが、この人の絵筆をさらに鋭角にシャープにしていったようだ。
人気作家だったのだろうが、その心象は明るいものを抱くときがあったのだろうか。


目黒川の桜


| たまにアート| 23:24 | comments(2) | trackbacks(0) |

「小野竹喬展」 五感が開いていく体験 
 


東京国立近代美術館で「小野竹喬展」を観た。
竹橋で竹喬を観るとは不思議な符合。

伸びやかな構図の日本の田園風景や自然が描かれている。
パステルカラーを使った明るい色遣いが心を浮き立たせてくれる、春の展覧会にはうってつけだったのかもしれない。
観ていると、静かな心持ちになり、絵の向こうから風や草木の匂い、波の音などが聴こえてくるように思えた。
なんとも素晴らしい体験だった。

| たまにアート| 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |

ルノワール展とアーティスト・ファイル2010展
お休みをとって、一日調べ物のはずが、六本木に出て新国立美術館でルノワール展アーティスト・ファイル2010展を観てきました。

ルノワールは、これまで印象派の代表格という位置づけで印象派展の中では観たことはありましたが、彼だけを扱った展示は初めてでした。
観ていて思ったのは、ここには芸術の苦悩も、芸術家としての生活の苦悩もあまりないということ。
ルノワールの親が服飾関係で働いていたため、恐らく若い頃から生活と芸術が密接なつながりがあり、かつ芸術を売り物として生きていくことに抵抗がなかったのではないかと思いました。
客である富裕層たちの肖像画を描いていくことは割と自然な形で受け入れることができたのではないかと思います。
ゴーギャンを扱った小説の中で、ルノワールがゴーギャンのことを悪く言うところがあったように記憶しているのですが、お客さんや芸術家たちとのコミュニケーション力に優れていたであろうルノワールと、狂人的な芸術魂のゴーギャンではそれは馬が合わないのではないかと思いました。
ルノワールは女性の白い肌を描写するのが、構成や配色の点からも抜きにでていますね。
対象をソフトに扱うことに長けています。
現代での評価は当時の評価とさほど変わらないものではないでしょうか。
(逆にその人柄が知れていたゴーギャンや、芸術に忠実なゆえに精神を病んでしまったゴッホとは大違いなのでしょう。)
 (※注:↑芸術史に疎いのでどこかに誤りがありそうです。あくまで僕のイメージです。)




アーティスト・ファイル2010展は、非常に楽しめました。
ツイッターで書いたものをペーストしておきます。(連動させる機能があるんでしょうが、わからないのと、こちらは匿名性が高いブログなので・・・)

アーティスト・ファイル2010の展示 が面白い。特に、桑久保徹さんの世界観にひかれた。世界で同時進行で進むある価値観にもとづいた世界。人は案外、ある一つの世界の中で生きていて、その世 界がいろいろあるのはわかっていても違う世界については知らぬ存ぜぬかもしれないと思ったよ。
・斎藤ちさとさんの泡の世界は、まるでボ リスヴィアンの世界だな。日々は泡でしかない。
石田尚志さんのつぎつぎと動いていく映 像は、世界は終わることがないけど、個人レベルではすべてを見通せない限界を暗に示していて、少し哀しくなったな。潮の響きのするインスタレーションには 少し涙。僕の日々の営為の明らかに小さいことよ。
仕事と大学院はまさに日々の営為だけ ど、頭の中はテトリス型のブロックの山。たまにアートでも見ると、残骸整理ができてよいものだ。理屈ぽい自分のソフトを一時的にアンインストール。








| たまにアート| 18:27 | comments(2) | trackbacks(0) |

「医学と芸術展」 生理的に苦手で残念


森美術館で「医学と芸術展」
僕一人だったら多分足を運ばないような内容だけど、医療業界に勤める妻には興味があるようで、一緒にでかけた。
一番心をうったのは、人の生前と死後のポートレイト写真かな。
そのほかの筋肉や骨や内臓関係の展示は、生理的につらくてさっさと通過した。
一人では観ないものだからこそ、自分にとっては大事なことなんだろうけれど、その大事さがわからないまま六本木を後にしたわけだった。

帰りに吉祥寺でごはん。
昨日は、くじら山というコミュニケーション系というのかな、ほんわかしたカウンターのある居酒屋で飲んで、今夜はタヴェルナ・ルッコというイタリアンでワイン飲んでました。
最初に食べた温菜(イサキとメヒカリのフリット、ベーコンとジャガイモのチーズなんとか、レバーの焼いたもの)が美味しかった。トリュフのリゾットはよくわからなかった。
カウンターで、シェフと話しながら飲むのに楽しい店のように思いました。














| たまにアート| 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |

木場公園と池田亮司展 この世界のコントロールセンター


仕事の山をどうにか超えたけれど、頭の中にはその戦いの塹壕やら不発弾の類がまだごろごろと残っているから、それをクリアにするために美術館へ。

木場の東京都現代美術館。
水路が織りなす古きものが空気に馴染んでいる下町的な雰囲気と、現代美術館の調和の妙。
駅から現代美術館へはその変位を緩衝するための木場公園。
木場公園がよいのは、草を管理していないような野原がまずあること。
(単に予算不足で、草刈りの頻度が少ないだけなのかもしれないけれど)
統制がききすぎていないことが、人の心を穏やかにする。
今にも雨の落ちてきそうな湿気を伴った曇り空の下を歩いているうちに、自分がこの美術館に来る時は大概、雨模様の日が多いことに気づかされる。
いつも靴を濡らし、鞄を濡らし、この公園を歩いているような記憶がある。

現代美術館では「池田亮司展 +/− [ the infinite between 0 and 1]」を観る。

0と1の間の無限というタイトルに惹かれたわけだ。
結局、今の僕の脳には0と1がきれいに構成されていないように感じたからだ。

展覧会は、会場を広く使って、数字やプログラミング言語の羅列が流れていくスクリーンと電子音のインスタレーションでで構成されている。
まるで、この宇宙のコントロールセンターのような印象だ。
宇宙の事象は、すべて0と1のプログラミングで科学的に証明できるだろうというところにある。
まるで数学者や物理学者が眺めている世界。

コントロールセンターでは、読み取れない早さで、膨大な数字とプログラミング言語が流れていく。
そして、そこに無駄がない。
何か乱れが生じれば、そこに何かのインパクトが生じているということ。
僕らは世界の様相をこの美術館の部屋を見守る。

宮島達男さんの作品にも似ているが、彼の作品が生命が誕生して消滅するはかなさ(あるいは力強さ)を描いていたのに対して、ここには誕生から消滅といった流れはない。誕生から消滅まで含めて、永遠に(だからinfiniteなのかな)流れ続ける事象を対象にしている。
ここでは、生命体である僕らや今という時間を必要としていない。
世界のコントロールセンターは電子音を発しながら誰の手も借りず(神様がそれを備えたときから)ずっと動き続けているからだ。

コントロールセンターを出て、2Fのカフェでコーヒーを飲む。以前はホットドックを出すような気楽なカフェコーナーだったが、なぜかベトナム・カフェに変わっている。美術館らしいといえば美術館らしいか。僕は、どこをもてばよいかわからない熱伝導性のよいガラスコップのベトナムコーヒーと、ベトナムプリンをひとりで食べていた。

美術館を出て、公園を歩く。僕の感覚器が鋭敏になったことがわかる。土や草木のにおい、視界のスクリーンは磨かれ、音が次々とはいってくる、そして肌に感じる植物の息づかい。
ここが僕の物語の世界。
たとえ、世界のすべての事象や僕らの体の組成が0と1でできていようが、物語は0と1にはなりえない。




木場公園内の橋から揺らぎのない直線的な川を眺める


美術館の2Fがベトナム系カフェに様変わり


キュレーターへのインタビュー&展示の様子


| たまにアート| 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
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