木場公園と池田亮司展 この世界のコントロールセンター


仕事の山をどうにか超えたけれど、頭の中にはその戦いの塹壕やら不発弾の類がまだごろごろと残っているから、それをクリアにするために美術館へ。

木場の東京都現代美術館。
水路が織りなす古きものが空気に馴染んでいる下町的な雰囲気と、現代美術館の調和の妙。
駅から現代美術館へはその変位を緩衝するための木場公園。
木場公園がよいのは、草を管理していないような野原がまずあること。
(単に予算不足で、草刈りの頻度が少ないだけなのかもしれないけれど)
統制がききすぎていないことが、人の心を穏やかにする。
今にも雨の落ちてきそうな湿気を伴った曇り空の下を歩いているうちに、自分がこの美術館に来る時は大概、雨模様の日が多いことに気づかされる。
いつも靴を濡らし、鞄を濡らし、この公園を歩いているような記憶がある。

現代美術館では「池田亮司展 +/− [ the infinite between 0 and 1]」を観る。

0と1の間の無限というタイトルに惹かれたわけだ。
結局、今の僕の脳には0と1がきれいに構成されていないように感じたからだ。

展覧会は、会場を広く使って、数字やプログラミング言語の羅列が流れていくスクリーンと電子音のインスタレーションでで構成されている。
まるで、この宇宙のコントロールセンターのような印象だ。
宇宙の事象は、すべて0と1のプログラミングで科学的に証明できるだろうというところにある。
まるで数学者や物理学者が眺めている世界。

コントロールセンターでは、読み取れない早さで、膨大な数字とプログラミング言語が流れていく。
そして、そこに無駄がない。
何か乱れが生じれば、そこに何かのインパクトが生じているということ。
僕らは世界の様相をこの美術館の部屋を見守る。

宮島達男さんの作品にも似ているが、彼の作品が生命が誕生して消滅するはかなさ(あるいは力強さ)を描いていたのに対して、ここには誕生から消滅といった流れはない。誕生から消滅まで含めて、永遠に(だからinfiniteなのかな)流れ続ける事象を対象にしている。
ここでは、生命体である僕らや今という時間を必要としていない。
世界のコントロールセンターは電子音を発しながら誰の手も借りず(神様がそれを備えたときから)ずっと動き続けているからだ。

コントロールセンターを出て、2Fのカフェでコーヒーを飲む。以前はホットドックを出すような気楽なカフェコーナーだったが、なぜかベトナム・カフェに変わっている。美術館らしいといえば美術館らしいか。僕は、どこをもてばよいかわからない熱伝導性のよいガラスコップのベトナムコーヒーと、ベトナムプリンをひとりで食べていた。

美術館を出て、公園を歩く。僕の感覚器が鋭敏になったことがわかる。土や草木のにおい、視界のスクリーンは磨かれ、音が次々とはいってくる、そして肌に感じる植物の息づかい。
ここが僕の物語の世界。
たとえ、世界のすべての事象や僕らの体の組成が0と1でできていようが、物語は0と1にはなりえない。




木場公園内の橋から揺らぎのない直線的な川を眺める


美術館の2Fがベトナム系カフェに様変わり


キュレーターへのインタビュー&展示の様子


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