針を飲み込む魚、それから「三四郎」のこと b11001
 朝早くから仕事があって、目覚ましをいつもより大分早い時間に設定したのだけど、そんななかでも人は夢を見るものだ。

僕は渓流釣りをしていた。
渓流の瀬に、糸を流して、魚がかかるのを待っていた。
それから見事に二匹の魚を釣り上げた。
なかなか、好調。

そして、さらに竿をふって糸を流したのだが、流れの途中で糸がとまった。
それが手前の大きな岩で隠されて、いったい何が起きたのかが瞬時にはわからない。
これは、川底で針がひっかかったかなと思って、竿のグリップをきかせてみると、なんと魚がかかっている。
僕が気づいた時点で、魚が動き出すとは、魚も随分と鈍重なものだ。
余り抵抗もなく、その魚は引き上げられたのだが、その魚を見て驚いた。
針をすっかり飲み込んでいるんだ。
針を無理やり引きぬくのでは、魚だって痛いだろう。
息の音をとめて、頭を切断するしか仕方あるまい。
と思って、なんだか魚の気分になって、僕は息が詰まる気がした。
魚だって、好きこのんで針を飲み込んだわけでもなし。
ほんとうは魚が餌に食いついた瞬間に、あたりを合わせて、竿をあげれば、魚の口先を針はきれいに貫通できていて、内臓への痛みなど与えなくて済んだのに・・・。

そして、夢から目覚めた。
のどが少し乾いた。

この夢が何かを象徴しているのではないかと思って、ちょっと気味が悪くなった。
後味の悪い夢である。


今日は仕事で、もしかしたら自分が針を飲まされることだって容易にありえそうな事態に遭遇した。
それは僕の思いすごしか、考えすぎなのだろうか。
危ない餌に呑気に食いつくことなく、少し注意をする必要があるかもしれないと僕は思った。

ちなみに課長とその夢の話をしていたら、「魚が人の顔だったわけじゃないんでしょ?だったらいいよ、俺なんていつも仕事の悪い夢しか見ていないよ」なんて言うんだもの・・・。ふへぇー。タフに生きないといかないとね。

以上、夢の話おわり。


今日は仕事の合間に待ち時間がずいぶんあって、小説を読めた。
漱石の「三四郎」。
こんな青春小説でもいろいろと考えさせられるところが多い。
この肩すかしのような恋愛小説を三四郎側から読むと、まさに肩すかしなわけだけど、これは美禰子側から読むとかなり難しい選択をしているんだなと思う。
単純な恋愛の心で考えれば、三四郎との間を詰めていけばいいだけなのに、彼女の自我がそうさせない。
三四郎は、東京大学で将来は大成するかもしれないけれど、今はまだ田舎上がりの一学生さんに過ぎないからだ。
経済面が担保されておらず、美的なセンスが発展途上で、全般的に大人としての余裕や責任感が感じられない。
だから、三四郎への間合いを詰めることができない。彼の気持ちがわかっていてもだ。
ストレイシープは、彼女の心の迷い。
なぜ、感覚にゆだねることができないのか。
物事を冷静に見る力があるから逆に、自分の感情を見失ってしまう。
だからといって、感情に従えば、「それから」の代助のようになってしまうわけだが。

この小説、現代では理知がどこでも勝っているから、美禰子の行動自体は不思議でない。だけど、それでいいのかどうかはわからない。わからないから小説のテーマになりえるわけだけど。

打算やら理知やら大変だな現代は。
針なんか飲み込みたくないし。
小説的な啓示なしの、ただのんびりと釣りをする夢でよいのにね。

| 読書(小説)| 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
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