地域景観について
このところ、東京では街の風景についての論議が活発になりそうな気配がある。

ひとつは国立駅の駅舎移転
 http://www.hit-press.jp/kunitachist/station.html

もうひとつは日本橋の高速道路の移設である。
http://www.worldtimes.co.jp/syasetu/sh060302.htm

どちらも、
|楼莊粉僂魄靴い覆ら、バブル前には開発優先で地元住民による議論の場すらなかったかもしれないような事例であり、
改めて地域景観とは何かということを考えさせる事例であり、
7粉冓歔瓦里燭瓩療垰垪導発とコストの天秤の問題が脚光を浴びている問題だと思う。

特にについては、日本橋の例においては、現在の小さな政府路線にもとづく公共事業の縮小化を考えた場合、開発を再開発に置き換えただけのものであるのではないかという議論がある。
また、国立の例では、駅舎の移転・保存費用をもつことを、これまで景観保全に対して他の自治体より数段神経質とも思える地方議会自体が、コスト面から否決してしまっている。

そう考えた場合、△魏めて考える必要性が出てくる。
地域景観が果たして僕らにとって、特に地域住民にとってどれだけの意味があるのかということだ。

僕が思うに、地域景観というものは、自分の琴線やキーボードにあたるものだと思う。
毎日、眺めることによって、それはひとつの音を生み出し、自分の中で想像力を喚起させることができる。
また、心のふるさとなんていう言葉があるけど、自分が回帰していける存在でもあるのだと思う。

でも残念ながら、その価値を数量的にあらわすのが非常に困難な類のものであり、常にそれは後回しにされる。

もし、駅までの路に、空き地があって、そこに毎年見事に咲き誇る梅の木があったとする。
その存在は決して、それがなくして街がありえないような類のものではないけれど、知らず知らずのうちに住民の心に刻み込まれている風景なのだと思う。
もし、その風景が突然どこにでもある駐車場か何かに変わって、なくなったとしても、僕らの多くは以前そこに何があったかもおぼろげにしか思い出すことはできない。
でも、何かが欠けてしまった気にはなる。
それは、自分の中のキーボードの音のひとつのようなものなのではないか。
僕らは知らず知らずのうちに、自分の想像力の喚起力が落ち、回帰する場所を失っているのだ。

この例は僕が今住む駅前の話だ。

だから、僕は地域景観というものの価値を数値化できる客観的指標を定める必要性を感じている。
そして、あるものを保全したり新たに開発しなければならないときに、開発コストと保全にかかるコストを比較していく土台とするべきだろうと思う。

また、そうした数値化というものが否応なく、地域住民にとっても地域景観が自分にとってどれほどの意味をもっているかいうことを考えさせる契機になるのだと思う。

| 風景について| 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
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