記憶と風景
ワインを飲みながらキーボードを叩いているからうまく書けるかわからないけれど、記憶と風景について書いてみる。

僕は「記憶」と「風景」という言葉が好きだし、実際、普通の人以上に興味をもっていると思う。
「記憶」は、自分の人生のある一点で感じた思いがよみがえる過程のことをいうのだと思う。
プルーストの小説は、まさに記憶について書いているような小説なのだと思うけど、主人公の記憶に残るものは彼の人生の中で栞をはさまなければいけないような瞬間なのだと思う。
人は記憶をよみがえらすことで、それを懐かしみ、何かを哀しく振り返ったり、胸を痛めることができる。
そうした感情の発露がその人の人生を奥行きのあるものにするのだろう。
もし、老人になって、その人が若いときの感興を何も思い出すことができないのならば、それはどんなに哀しくて平板で味気ないことだろう。
人はある時点の記憶が、哀しくても、苦しくても、いや哀しくて苦しいからこそ、それをとどめておこうとする。
だからこそ、映画や小説の中の他人の記憶のリフレインすらも、まるで自分の記憶のリフレインのように扱って、涙することができるのだと思う。

記憶こそが人の感性の豊かさなのだという意見もある。
記憶がなければ、何かを懐かしんだり、哀しむこともできないからだ。
だからこそ、人の一生の中で記憶するべき栞をはさむことこそが、その人の豊かさにつながるのだと思う。

もし、平板な毎日であったら、栞をはさむこともできないだろう。
あるいは平板な毎日に慣らされたら、栞をはさむ瞬間というものを取り逃がしてしまうかもしれない。

そして、もし、風景が平板であったなら、僕らは何の感興も起こさず、そのために何の記憶も残さないかもしれない。

よく引用されるプルーストのマーマレードと紅茶の嗅覚からなる記憶のように、僕らは五感によって記憶を呼び戻す。
風景は視覚に訴え、さらには嗅覚、触覚、聴覚に訴えるものなのかもしれない。
もし、僕らから風景が奪われて、どこにでもあるような平板なものに入れ替わってしまったらどうだろう。
僕らは何も思い出しはしないし、どこにも回帰することもできない。

だから、僕には地域景観が織り成す独自の風景というものは重要だと思う。
そこに住む人たちの感性を成り立たせているものだからだ。
河瀬直美の「萌の朱雀」では田舎の風景の中で、言葉を発さなくとも、心を通わせることのできる人たちを描いていた。
彼らは風景を共有しているからこそ、お互いの痛みを分かち合うことができた。
実際、映画の外であっても、田舎にいけば、風景を分かちあうということが頻繁に行われていて、知らないもの同士でも一つの言葉だけで、心を通わすことができる。
だけど、都会ではどうだろう。梅林脇の駅への小道であればまだ僕らはどうにかそうした心のやりとりができるだろうけど、果たして同じような車が並ぶ駐車場の脇で心を通わすことができるのだろうか。
風景を失うことというのは、自分たちの心を失うことと同義なのかもしれないよね、なんて考えるととても寂しくなる。

| 風景について| 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
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