風景を記憶するための装置
二夜連続で風景について書いてきたので、さらに書いてみる。
僕の場合、書くことで自分の考えをまとめることができるから、書きながら、自分の考えに核融合のような変化があるのではないかといつも期待してしまう。

風景を記憶するための装置は、プルーストの時代には紙と鉛筆しかなかったけれど、技術の発展とともにさまざまなものが出てくるようになった。カメラであり、ビデオカメラであった。
また、この10年間くらいのインターネットの進展によって、これまで発信が限定されていた(例えば映画会社、テレビ局などのマスメディア)のが、個人の自由な発信が可能になりつつある。

僕が最近ネット上をさまよっていて、感銘を受けたのは、仲俣暁生さんの「海難記」に載せられていた下北沢の映像だ。

 http://d.hatena.ne.jp/solar/20060212/p1

世界の最後の下北沢、と名づけられた仲俣さんの映像は、下北沢の町の風景を愛情をもって撮影したものである。映像からは、映像をとっている人のまなざしの優しさを感じ取ることができる。
そうしたまなざしこそが、僕らが風景を記憶するときのまなざしなのではないかと思うのだ。

デジタルビデオカメラを渡されて、自分の住んでいる町の好きな風景を自由に撮ってみてください、と言われたら、おそらく心の余裕のある人であれば、仲俣さんほどの映像がとれなくても、恐らくそれに似た映像を撮ることができるのではないだろうか。
駅の周辺を撮り、並木道を撮り、古い家並みを撮り、老木を撮るかもしれない。
僕らはそのとき初めて、風景を記憶するための装置を意識的にとりあつかうことになるのだと思う。それは、一瞬一瞬の忘れてしまうであろう記憶の集積を拾い上げる行為なのだと思う。
もし、それが失われてしまう風景であれば、その記憶する過程の意味は大きいものになる。
僕らはそれを手元においておき、それによって自分の風景を自らの感覚の中だけではなくて、形として残すことができ、さらには他の人にも見せることができる。

そして、インターネットでの個人発信。僕らの記憶の中にある風景はアーカイブとなって、いろいろな人の記憶の中にも潜りこんでいくことができる。
もしそれがある地域の中で公開されて、互いの記憶を交換することになれば、やがて地域景観としての共通項が形を現していくのではないだろうか。
共同作業を行わなくても、あるいはサーバのむこうがわの世界を握るgoogleであれば、人々がインターネットを通してアクセスする数々の映像の中から、その地域景観に重要な景観の要素に得点づけることも可能かもしれない。

僕がもし何かの拍子に景観関係の研究に舞い戻るのならば、そうした風景を洗い出す作業をやってみたいと思う。
僕がもし何かの拍子に小説をふたたび書こうとするならば、そうした風景を描き出す作業をやってみたいと思う。

| 風景について| 23:31 | comments(0) | trackbacks(6) |
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