b08070「暴走する資本主義」 消費者や投資家の僕が勝ると、資本主義は市民としての僕を轢き殺すだろう ☆☆☆
暴走する資本主義
暴走する資本主義
ロバート ライシュ,雨宮 寛,今井 章子

超資本主義が市民主義を凌駕する時代になったことを告げた本。読み進めるうちに、この世界の構造というものが否応なく企業の論理で動いてしまっていることをはっきりと気づかされ、それに対抗できるベクトルがないことに胸を痛めた。

僕らは、この資本主義の中で生きていく上で市民であるのと同時に、企業の商品やサービスを購入する消費者であり、また企業の株をもつ投資家の側面をもっている。
僕らは、市民としての生活が高めていけることを望んでいる一方で、消費者としては質の良い物を便利に安く買いたいと考えており、株主としては企業が株主価値を上げて株価が上がったり(キャピタルゲイン)、配当が上がったり(インカムゲイン)することを望んでいる。

僕らは市民として例えば二酸化炭素を減らそうと言い、心からそれを望んでいる。そして、そうした環境活動に熱心な企業の商品を応援したいという気持ちをもっている。
だけど、消費者としての僕らは大抵の場合、市民としての価値観を超えてしまう。スーパーで環境活動に熱心な企業の商品と同じ質で、かつ安い商品があれば、さほど迷うことなく安い商品を買ってしまう。
つまり、その瞬間に、消費者としての僕>市民としての僕、という不等号がついてしまうわけだ。同様に、株主としての僕>市民としての僕、という関係も成り立ちやすい。
そして、そのとき、企業は間違いなく、企業の利益に反する行為はやめてしまう。つまり、コストを削減して(環境活動コストを削減して)価格を安くしようとするだろう。
企業は株主価値を最大化することが至上命題になっているからだ。

そして厄介なことは、企業は株主価値を最大化して、消費者に支持される商品やサービスを提供するために、ロビー活動を通して、政治にまで影響を与えるってことなんだ。

企業の論理が恐ろしいことに世界を動かしていくってことになる。

僕が心を痛めている都市景観の問題にせよ、何の問題にせよ、その裏にあるのは僕が市民としての僕ではなく消費者や投資家の僕を選んだことの結果による因果応報ということなのだ。

なんともやっかいな時代になったものだ。
ならば、市民としての利益が優先される世界に引き戻すには、つまり僕らが価値観を変えて、市民としての僕らを少しでも優先していくことが大事なのだろう。それには、価値観の在り方自体を変える必要がある。パラダイム変換が必要になる。
その上で、法律による網をかけていく必要がでてくるってわけだ。
規制緩和に僕はこれまで支持していたけれど、実は規制緩和というのは資本主義を暴走化させえるものでもあるってことだ。
だからといって資本主義すべてに網をかけてしまえば、経済活動が低調になってしまって、市民としての利益はなくなってしまう。

二律背反的な価値観について、極めて難しいけれど、バランスをとっていくことが大事というわけなのだろう。
| 読書(経済学)| 01:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
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